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原子1 電磁気学の歴史

電磁気学の歴史

 原子の分野に入りました。原子分野は、現代物理学の一つで、明治時代あたりから急激に発展した分野です。ですが、その歴史は古く、古代ギリシャの時代までさかのぼることになります。

 

 なぜそんなに過去にさかのぼるかって?

 

 現代を生きる皆さんにはおなじみですが、物質を構成している原子は、原子核と電子から成り立ちます。この原子核や電子はあまりにも小さく、存在こそ予測されていましたが、実際に発見し、その性質まで細かく研究することができるようになったのは20世紀に入ってからなんですね。

 

 そこで、まずは原子分野がどのように切り開かれていったのか、その歴史を、電磁気分野のスタートから見てみようと思います。

 

 この講は単なるお話の部分ですので、読み飛ばしてもらっても、成績にはあまり影響はないと思います。

 

静電気の研究

▼古代ギリシャ時代

 紀元前6世紀頃、古代ギリシャのタレスは、琥珀をこすり合わせると、ほこりや羽毛を引き付けることを発見しました。これが今に知られる「摩擦電気」です。

 電気に関わる、\(electron\)や、\(electricity\)といった単語は、実はギリシャ語の琥珀(ηλεκτρον:エーレクトロン)が語源となっています。

 ただ、当のタレスは、この摩擦電気を電気の力であるというところまでは見抜くことはできず、磁石の力ではないかと説明しました。しかし哲学者以外の人間では理解することが出来ず、一般の民衆の間では、琥珀には精霊か何かが宿っているのではないか、と考えていたようです。

 

 

▼17世紀頃:静電気の再発見

 時代はワープして、16世紀頃、イギリスのギルバートは初めて\(electricus\)という言葉を使いました。物質を摩擦して発生する、この特性のことを\(electicus\)と呼ぶことにし、磁石による力とは別の力であることを説明しました。

 

 1646年、イギリスの作家、トーマス・ブラウンが著書の中で\(electricity\)と使ったのが、電気という言葉の誕生です。

 

 このころ、物質には静電気を帯びるものと、静電気を帯びないものがあることが知られていました。今の感性と少し違いますが、静電気を帯びるような物質(つまり絶縁体(不導体)ですね)のことを「電気性物質」と呼び、逆に、静電気を帯びないような金属などの物質「非電気性物質」としていました。

 

 そして、電気性物質の中でもさらに違いがあることが1733年に発見されました。フランスのデュ・フェイ電気には性質の違う2種類のものがあることを発見し、同じ種類の電気は反発し、異なる種類の電気は引き合うということを説明しました。

 そして、ガラスを摩擦させたときに生じる電気を「ガラス電気」、樹脂を猫の毛皮でこすり合わせたときに生じる電気を「樹脂電気」と名付けました。

 

 

▼18世紀頃:電気の特性の研究

 1752年、アメリカのベンジャミン・フランクリンは、電気には種類などなく、ただ1種類のみ存在すると提唱しました。

 

 フランクリンは「凧あげ実験」を行い、雷雲が電気を帯びていることを発見しました。物質には「電気流体」といわれるものが含まれていて、ガラス電気は電気流体が過剰に含まれている状態、樹脂電気は電気流体が不足している状態であると説明しました。

 これが現代、電気をプラスとマイナスで考えることになったスタートの話です。きっかけ次第では、磁石のN極やS極のように、ガラス電気をG極、のように呼ぶようになっていても、特段、不思議ではありませんね。フランクリンの発見が大発見だったのかどうかは分かりませんが、考えのエレガント(上品)さは当時の科学者に十分受け入れられたということでしょう。

 

 そうなってくると、電気は流体として流れるものだという認識が一般的になってきます。1800年、イタリアのボルタは、皆さんにもおなじみの化学電池を開発し、電気流体は化学電池の正極から負極へ流れるものだと提唱しました。まだこの時点では、電気流体の正体が何であるかは分かっていませんから、この時点で電流の正の向きを定義してしまった弊害が、現代まで引き継がれてしまっていますね。

 

 

▼19世紀頃:真空放電の研究 ドイツ科学の台頭

 1855年、ドイツのガイスラーは、ガラス管内の空気を抜いて高電圧をかけると真空放電の様子を観察できる、ガイスラー管を開発しました。ガイスラー管では、陰極から陽極に向かって赤紫色の光の帯が見られます。

 

 すぐ後の1858年、ドイツのプリュッカーは、ガイスラー管の真空度を高めると、ガラス管内が黄緑色に発光することを発見しました。この色は、ガラス管内の気体の種類によらず、いつでも黄緑色になることから、電気そのものの性質なんだろう、と予測ができます。

 

 さらに、1869年、ドイツのヒットルフは、黄緑色の蛍光線の前に遮蔽物を置くと影ができることから、蛍光線は陰極から飛び出していることを突き止めました。

 

 そして1876年、ドイツのゴルドシュタインは、この陰極から飛び出す蛍光線を「陰極線」と命名しました。

 

 それにしても、この時代のドイツの躍進には目を見張るものがありますね。それまで小国がバラバラ状態だったドイツ連邦が、プロイセンが台頭し、やがて統一国家になっていったのが、この19世紀頃です。イギリスが「世界の工場」と言われ、フランスとともに世界の覇権を握っていく中、ドイツやイタリアは、やっと国内を統一することが出来た程度の後進国でした。

 それでも、経済界ではマルクスやエンゲルス、音楽界ではベートーベン、文学界にはゲーテやグリム兄弟らを輩出し、ドイツの勢いが増していくのが表向きにもはっきりするのが、この19世紀ですね。

 

 物理界では、最終的には、この勢いあるドイツで若き日を過ごしたドイツ人やユダヤ人らによって物理学は核の時代へと突入します。科学の発展に関してもキーとなる国ですね。

 

 

▼19世紀末:真空放電の研究 イギリス科学の挽回

 後進国だったドイツ科学者によって物理学が発展した後、先進国イギリスも負けずと発展に寄与していきます。

 

 1875年、イギリスのクルックスはクルックス管を開発し、陰極線の前に置かれた羽根車が回転することや、磁場によって曲がることから、陰極線の正体は微粒子だということを突き止めます。

 

 1894年、アイルランドのストーニーは、物質の最小単位が原子であるように、電気量にも最小単位があるのではないか、として、電気素量の存在と値を予言しました。

 

 そして1897年、イギリスのトムソンによって、その電気素量の前身となる「電子の比電荷」が求められました。

 

 さらに同年、アイルランドのタウンゼントによって、ただちに電気素量も求められました。

 

 19世紀中ごろに、ドイツが次第に先進国化していくと、「世界の工場」であったイギリスは、その莫大な資本をフル活用して「世界の銀行」へと姿を変えて、引き続き発展を目指していきます。しかし、台頭するドイツの3B政策と、イギリスの3C政策がかち合い、やがて1914年からの第一次世界大戦へと時代が流れていきます。

 世界の覇権を決めるとき、そこには軍事開発が関わりますので、自然発生的に科学の進歩も見られます。この時代、覇権を握ろうとしていた西欧と東欧のそれぞれで、大きな科学的な発展が見られたのは、必然だったのかもしれませんね。

 

 

▼20世紀:科学の発展の場は米国へ

 1909年、アメリカのミリカンがちゃっかりと電気素量の精密な値を求めています。ミリカンの実験は受験では重要事項ですので、しっかり押さえておきたいですね。

 

 第一次世界大戦で戦場となったヨーロッパは、その後の復興に時間を要します。その間、戦場にならなかったアメリカが発展し、第二次世界大戦期には世界の核開発の中心地となっていきます。核物理の発展は、第二次世界大戦でキーとなる国だったアメリカ、ドイツ、日本の三か国で進みました。

 そして、二次大戦後、宇宙開発ではロシアとアメリカが台頭します。現代科学の歴史は、軍事の歴史とつながりが深く、そのためにマイナスとなる面も多く現れます。

 物理を専門にすることを考えている高校生は、そのことも頭の片隅に置いておいて、科学的な倫理観を見失わないようにしたいですね。