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2 研究とはいえないもの

研究とは言えないもの

■解決が求められていない

 たとえば、男子校に通ってて、長らく彼女ができないK君がいたとします。そのK君がなんとか彼女を作ろうと、『僕の彼女の作り方』という研究を始めたとします。

 こういうものは、彼とその友人たちにとってはとても興味深いかもしれませんが、「多くの人に、その解決が求められているもの」ではないと思います。

 一部の人たちにとっては、とても興味があることかもしれませんが、世間一般の人たちにとってはKくんに彼女ができるかどうかなんて言う事はどうでもいいことで、全く求められていない情報ですね。(もしかすると、解決しないことを願っている人もいるかもしれません…)

 こういったものは研究の対象とはなりえません。「過去問を分析して、期末テストの予想問題を作ってみた」とか「紙を折って紙カップを作ってみた」とか、作ってどうするの?で、何なの?と言ったものは、全く研究の対象とはならないわけです。

 

 

■学術的でない
 一方で、例えば私と会ってお寿司を食べに行きたい。どうやったら会えるだろう。どうやってお寿司をおごってもらえるか研究してみよう。と考えた人がいたとします。

 私と会ってお寿司を一緒に食べに行きたいと言う人はたくさんいますね。これは多くの人に求められていることです。嬉しいですね。ぜひ一緒にお寿司を食べに行きましょう。

 ただこれを「研究する」となると、いったいこの研究のどこが学術的意義があるのかが分かりません。多くの人に求められているものを調べるにしても、学術的意義がなければ、それはそれで研究とは言えないものになってしまいます。

 


■そもそも何の問題にも取り組んでいない

 LEGOブロックのシリーズの一つに、LEGOエデュケーションというものがあります。LEGOブロックを組み立てて工場のようにしているところに、プログラムを仕込んで自動で装置を動かすことができる、という、すばらしい商品が世の中には存在するのですが、このLEGOエデュケーションを使って、創作のロボットを作って動かす、という自由研究をしたとしましょう。

 夏休みの自由研究で教室に持っていくと、おそらく中々いい評価を付けてもらえそうな気もします。

 

 ところが「研究」の観点から考えてみてください。これは、何の問題を解決しましたか?どんな学術的問題を解決したんですか?

 

 結局のところ、たとえ創作であったとして、たとえ独創性があったとしても、「研究している」と思っているのは自分だけで、何の問題も解決していなければ、それは単なる自由工作にすぎないことになってしまいます。

 工作が悪いとは言っていませんが、工作した、その後をどうするかが重要で、工作することそのものが軸になるのは研究ではありませんね。

 

 

■解答が明らかな問題に取り組んでいる

 熱いお湯と冷たい水を混ぜて、熱平衡が成立するかどうかを調べた。

  ⇒ 成立する。これは教科書のレベルです。

 サトウキビから砂糖を作ってみた。

  ⇒ 作れる。常識ですね。

 銀鏡反応を利用すると鏡が作れると知ったので、自分たちで試しに作ってみた。

  ⇒ 作れる。これも教科書のレベルですね。

 

 こういった、明らかに答えが分かりきっているものに取り組んで、それをまとめたところで、「高校生の知りえる範囲を超えた」知識を導き出したことにはなりません。研究レポートを頑張って作った割に得点がいまいちだった場合は、こういったケースである可能性が大ですね。

 そこからもう一歩、実験の方法に工夫をしてみたり、複数の実験方法を比較して、その共通点や相違点に言及してみたり、なにか教科書だけでは分かりえないような関係性や、発見を組み込んで、はじめて、まず「研究した」ことになるわけです。

 

 あとは、その観点が鋭いのか、いろんな人にさせてみたら大体みんな同じことを閃くのかで、研究の価値は変わるでしょうし、同じ実験をするにしてもどのくらい厳密に、精密に行った実験なのかの違いでも、研究結果の価値には違いが生まれると思います。

 

 

▼研究とは言えないもの

・解決が求められていないもの

・学術的問題を提起していないもの

・そもそも何の問題にも取り組んでいないもの

・解答が明らかな問題に取り組んでいるもの